2011年8月13日土曜日

形篇・勝って当たり前

 誰でも勝てる相手に戦って勝っても褒められない。
 強い敵と戦って誰もがすごいという勝ち方も善いとは
いえない。
 そもそも毛を持ち上げても力持ちではない。
 日や月が見えても目がよく見えるわけではない。
 雷が鳴るのを聞いても耳がよく聞こえるわけではな
い。
 昔の戦争に慣れた者は、戦わざるおえない敵に無
理をせず勝った。
 だから戦争に慣れた者の戦い方は、有名にならず、
勇猛で称えられることもない。
 勝って当たり前なのだ。
 当たり前のように必ず勝つ。
 それは身内からも見放されたような敵に勝つからだ。
 戦争に慣れた者は、敵の中からも味方につくような
状況を保ち、敵の自滅を助長する。
 戦争に勝つのは大義名分があり、多くを味方につけ
て戦争をするからで、負けるのは大義名分もなく身内
からも理解を得られないのに戦争をするからだ。

※大人が子供に勝っても褒められない。それどころか
非難されるだろう。
 自分より強い相手に勝つと、さらに強い相手が挑戦
してくる。
 三国志で蜀の諸葛孔明は、奇策を用いて次々と苦
戦を乗り切った。しかし、蜀は弱小国のまま消滅した。
 魏の司馬仲達は、これといった戦功は伝わっていな
いし曹操の腰巾着のように思われているが、その孫は
魏を滅ぼして晋を起こし天下統一している。
 この二人が戦った時、孔明は陣中で病没した。それ
を知った仲達は攻撃にうってでた。ところが孔明らしき
人物の姿が見えると、仲達はあわてて撤退した。これ
が「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という故事になっ
ている。
 もし仲達が孔明の死んだ軍隊を攻撃していたとしたら
世の中の批判を浴びるだろう。
 仲達の目的はすでに達成して戦いに勝利しているの
だから深追いをする必要はない。
 むやみに敵をつくらないから必ず勝つのだ。


勝を見ること衆人の知るところに過ぎざるは、善の善
なる者にあらざるなり。
戦い勝ちて天下善しと曰うは、善の善なる者にあらざ
るなり。
ゆえに秋亳(しゅうごう)を挙(あ)ぐるは多力となさず。
日月を見るは明目となさず。
雷霆(らいてい)を聞くは聡耳(そうじ)となさず。
古のいわゆる善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。
ゆえに善く戦う者の勝つや、智名なく、勇功なし。
ゆえにその戦い勝ちてタガわず。
タガわざる者は、その措(お)くところ必ず勝つ。
すでに敗るる者に勝てばなり。
ゆえに善く戦う者は不敗の地に立ち、しかして敵の敗
を失わざるなり。
このゆえに勝兵はまず勝ちてしかるのちに戦いを求
め、敗兵はまず戦いてしかるのちに勝ちを求む。

見勝不過衆人之所知、非善之善者也
戰勝而天下曰善、非善之善者也
故舉秋毫不爲多力、見日月不爲明目
聞雷霆不爲聰耳
古之所謂善戰者、勝於易勝者也
故善戰者之勝也、無智名、無勇功
故其戰勝不タガ
不タガ者、其所措必勝
勝已敗者也
故善戰者、立於不敗之地、而不失敵之敗也
是故勝兵先勝而後求戰、敗兵先戰而後求勝